アーオーエラヤードーコセ、ヨーイヤナ、ヨイヨイ
この囃唄にのって下田に夏がやって来る。
四万十川河口の町、下田には江戸時代から伝わる太鼓台の巡行が今も続いている。
太鼓台は、およそ7時間近くをかけて独特の囃唄と太鼓の拍子で下田中を練り歩く。重さ1トンに近い太鼓台が揺れつ戻りつしながら往来する、港町下田には夏を告げる祭りがある。
フトンとシボリ
下田の太鼓台は四本の支柱からなる台の上に太鼓を載せ、天蓋部にフトンと呼ばれるの飾りを重ねたもので、担ぐためのかき棒が左右に2本ずつ付けられている。
太鼓台の上部に水平に重なっている水色の部材をフトンと呼び、フトンを固定するために縦方向に付けられているピンク色の部材をフトン締めという。
太鼓台飾りでもうひとつ大事なのが籾殻を詰めたシボリと呼ばれる飾りだ。シボリには大シボリ、小シボリの二種類がある。
大シボリは正面に見える大きなもので、前後で紅白を使い分けている。小シボリはフトンが重なる段を囲うように取り付けられるもので2色の小シボリを結んで使う。シボリの結び方は神社等の御簾でよく見かける「あげまき結び」というものだ。
もともと重い材を用いた骨格に、籾殻の詰まったシボリや板状のフトンを重ねてしまうのだから、組み立てた総重量は1トン近くにもなる。
これを20名ほどのかき手が担いで総延長約4.2キロを歩くわけだ。
堺から来たまつり
下田の太鼓台は江戸時代に堺から購入してきたものと伝わっている。
一説には、港町として栄えていた下田の気の荒い人達の間で喧嘩が絶えないので、あらたな祭事を導入することで収めようとしたとも。
もともとはだんじりを購入する計画だったというが、大きさが町の街路のサイズに合わず、断念して太鼓台を買ったという。
当初太鼓台は下田、水戸、串江の3地区が所有していたらしいが、現存するのは下田と水戸にそれぞれ1台ずつだ。(地区分けについては前記事を参照のこと)
昭和初期頃の写真を見ると、女物のワンピースを着て化粧を施した屈強な男たちが太鼓台を担いでいる。化粧をして誰だか本人確認できない状態で喧嘩をしたとかしないとか。。。港町ならではの気質が伺える逸話だ。
今では法被姿やアロハシャツが目立つものの、人によっては女物の生地を使うなど古い風習を少し垣間見ることもできるのである。下田に残る太鼓台は、太鼓台としては小ぶりな方だ。以前の記事で触れたように下田の町並みは少なくとも江戸時代から大きな変化をしていない。街路の幅もしかり。太鼓台のサイズは町のスケールに合わせて変わらずにいる。ただ、下田と水戸の太鼓台は少しだけ大きさが違う。水戸のほうがわずかに規格が大きくて、その分重い。担ぎ手にとってはそれほど嬉しいことではないものの、水戸の太鼓台が重いということがちょっとだけ水戸の自慢になっているところがこの地域らしいところだ。
担ぐひとびと
太鼓台保存会
下田が港湾として活況を呈していた時分は、太鼓台出台に関する運営を地区の青年団が行っていた。けれど生業が変わり、暮らしが変化した今は下田地域全体で保存会を結成して運営をおこなっている。保存会の会長は2年ほどで交代しながら次の代の補佐役に回っていく。太鼓台の取材を始めて7年になるけれど、この若者たちの気負わないチームワークの良さがこの祭事を支えているといってもいいだろう。
地区のアイデンティティ
もともと下田と水戸は港湾機能の遷移によって栄えた時期が異なる2つの地区だ。当たり前といえば当たり前だが、2地区の間にはそれなりの緊張関係がある。
しかし、現在は地域で祭事に関わる若者が少なくなったため、太鼓台は下田、水戸をそれぞれ隔年で出台することにして、下田全域の若者で担ぐようになっている。
ところが、70代の先輩たちにとっては今も太鼓台は下田と水戸の従来の関係を反映するらしく、地区の若者が相手方の太鼓台を担ぐことを芳しく思わない人達も未だに少なくない。
それは一見因縁を引きずった仲の悪さのようにも見えるが、それぞれが独自のアイデンティティを強く持って暮らしてきたことの裏返しで、こういう場面で垣間見れる気質こそが地域らしさをよく表しているのかもしれない。
次の担い手たち
下田では太鼓台を担ぐ次の世代も育ってきている。大人の担ぐ太鼓台の後ろに色も形も同じ小さな太鼓台が続いて、小さな担ぎ手達が掛け声を合わせている。
「僕、太鼓打ちになりたい!」なんて大人の太鼓台に憧れる世代が後にいることは心強い。
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