田野川を流れる川
田野川のため池の下を流れる田野川川。田野川集落を流れる唯一の小河川だ。この川は地下水位が低く、夏場や冬場には川の水が地下に姿を消してしまう。
しかし、農地への配水はこの川を頼りにするほかなく、昔は9箇所も川に堰が造られていたというから水源としていかに重要だったかがわかる。このような条件のもと、夏場に水を必要とする中稲を育てていた頃は水源の確保は深刻な課題であったに違いない。
ため池に梅雨期の雨水をしっかり溜めておいて必要な時期に少しずつコントロールして利用する。おそらくこれが巨大なため池築造の主な目的なのではないだろうか。
ため池のしくみ
こう考えてもう一度池に目をやると、畔に小さな仕掛けを見つけることができる。池の水際から中心に向かって木杭が並んでいるのだ。地元でタテギと呼ばれるこれらの木杭は木製の懸樋(かけひ)に順番に刺さっていて、懸樋は田野川川につながっている。この木杭を岸側から順番に抜いていくとその穴の高さまで水が抜けて、川から堰を通じて水田に配水できるしかけだ。
工夫は配水方法だけにとどまらない。池の堤の一部を低くくして石で覆い(現在はコンクリートで被覆)、自然にオーバーフローさせる場所を用意することであちこちで水が溢れて池全体を痛めないような施設も用意されている。
池は何度も改修を加えながら現在の姿になっているらしく(最後の改修は昭和10年)、築造当初の状態を正確にうかがい知ることは難しいが、完成から250年以上も改修を重ねて利用されてきた来歴は、この池が地域にとって重要な機能を担うものであったことの証しだろう。
地元の古老に話を聞くと、このタテギの管理と水田への配水の管理は「水番役」と呼ばれる役員が選出されて取り仕切ったのだという。水路もしくは畦越しでモメ事にならないよう上手く配水していくためには相当な調整能力と人望が要求とされたはずだ。
ちなみに現在は梅雨期に水を必要とする早稲に栽培品種が変わったことでため池の役割は減少しているが、池いっぱいにたまった水は渇水する約1ヶ月の間、下流の14haにおよぶ水田を潤すことができたという。この他、昔は定期的に水を抜いて池のコイなどをとって食べたとも聞くので、池は集落のタンパク源の確保にも一役買っていたわけだ。
ため池からは、管理可能な水を確保することで収穫を安定させ、農地を広げ、生活を向上させようとした水源に乏しい農村の格闘する姿が浮かび上がってくる。それは、水源の管理システムも内部で生み出していくという、集落が主体となって土地と共に生きようとした経済発展の一つの姿とも言えそうだ。
小さな石碑の語ること
このように池の畔の小さな石碑は、その内側でかつての壮大な土木工事を伝えつつ、田野川という土地の特質、生業のかたち、それに伴う組織の姿など、この土地について多くのことを物語っている。
この石碑は昭和54年に中村市(現四万十市)の文化財に指定されている。文化財なんて言葉を使うとついつい「重要」とか「国指定」、「県指定」など大きな範囲の冠がついたものが重要であるような気になってしまうが、実はそうではない。その遺産が語るものの範囲が異なるだけなのだ。
「私」を語ることと「我々」を語ることの大切さが比較の対象にならないように、その場所を語るために大切なことはやはり重要なものなのだ。いろんなことが暮らしの単位を飛び越えて、おしなべて語られたり比べられることが多くなった今、この小さな石碑が僕たちに伝えることが少し増えているのかもしれない。