山奥の大池
集落の背後に続く小道を登ると、突然目の前が大きく開けて巨大な池が現れる。
四万十川の支流、中筋川の流域に田野川と呼ばれる集落がある。池は集落のどの家よりも高い場所で静かに水を蓄えている。地元で聞くと広さはおよそ8反(およそ8,000㎡弱)ほどあるという。この池の畔をぐるりと歩くと、途中で笠を被った小さな石碑を見つけることができる。今回のみち草はこの小さな石碑から始めてみたい。
「石謂内有」
石碑の表には「石謂内有」とだけ刻まれている。
”石の謂れは内にあり”。
まるで映画の謎解きのようだ。よくよく石碑を観察すると、石碑の前と後ろは別部材になっていることに気づく。
そう。この笠は2つの石板を留める働きをしているのだ。
笠を持ち上げると石碑は2つに開く。石板の内側にはまた別の文字が。どうやらこの文字が石碑の謂れを物語るものらしい。
(もちろん誰でも行って勝手に笠を持ち上げたりするのは厳禁。地元の許可は必須。)
文字は全部でおよそ50文字ほどで、すでに剥がれ落ちて判読できない文字もある。地元の資料と付きあわせながら復元すると次のように読むことができる。
田野川村高中築池
享保九甲辰年初几
同村庄山崎市之亟企
父子勤山崎重蔵代
地成就也人夫三万
二而調御郡中寄夫
石碑が語る物語
石板の片面には父市之亟の、もう片面には子重蔵の代の話が刻まれていて、刻字は、亨保9(1724)年から田野川の庄屋山崎市之亟、重蔵が二世代に渡って尽力しこの池を築いたという歴史を物語っている。
つまりこの高所にある巨大な池は人工的に造成されたため池だったわけだ。工事には近隣集落から延べ3万人の人夫が出役で関わったというから相当大規模な土木工事であったことは明らかで、人夫の確保には藩の協力があったであろうことも想像に難くない。
新田開発に力を入れた享保の改革の最中とはいえ、この小さな集落でこれほどの難事業に取り組んだのはいったい何故だろう。