MENU

1.ことちゃん(香川県)

[四国の外レポ]長崎。米軍あっての街だけん。

2013.5.28 

「はたのみち草第5回』
「下田」の下田②

Share on FacebookTweet about this on TwitterPin on Pinterest

michikusa

したまぁち

かつてうわまぁちは大通りの役割を担っていたが、下田発展に伴う交通量の増大に対応するため川側へより幅の広い真っ直ぐな道が生まれる。いずれ新しい通りには商店や廻船問屋、船大工の家々が並ぶようになる。したまぁちの誕生だ。
川へまっすぐ出れることが重要であったため、うわまぁちの縦の通りをそのまま伸ばして街区を広げ、一見碁盤の目のように見える区画が形成された。
したまぁちの誕生時期は明らかでないが、江戸末期にはすでに大きな商家が軒を並べていることが記録から伺える。
川に背を向けて建ち並んだ家々には勝手口から直接川へ降りる石段がついており、豪商宅には川から直接舟で乗りつけて離れに客人を案内できたものもあった(前回紹介した増水用の柱を持つ家がまさにそれ)。したまぁちには四万十川から竹島川を遡上する機帆船や川舟が多く往来し、積荷の上げ下ろしが行われていた。船重量の増大と竹島川への土砂堆積によって大型船の航行が困難になるまで下田の経済はここに集中していたのだ。

六助さんの道

DSC_4756.JPG

明治~大正、昭和初期には流域での国有林事業が活性化し薪炭や材木の搬出量が増大することにともなって、下田は大きく発展する。
荷馬車やバスの往来するしたまぁちの通りはとても繁華な往来があったらしい。売り荷を川舟で下田に運んだ夫が、儲けを下田界隈で遊んで散財したため上流域の奥さんたちは下田を苦々しく思っていたなんて話が残っているくらいだ。
しかし、古い道幅では荷馬車とバスが対面すると行き違いができず、後ろへ下がれない荷馬車にゆずってバスが後退してやりすごしていたという。
このような交通事情を改善しするため昭和30年代に県道20号線の敷設が計画される。現在もっとも川側に走る道である。
この道の敷設に尽力したのが井上六助という下田在住の県会議員で、いまでも年長者はこの道のことを「六助さんの道」と呼んだりする。
この道路の敷設は従来の川岸を埋め立てて平地を増やし、そこに道路を伸ばすという計画だった。この工事で下田の川際の景観は大きく変化する。
かつて川へ降りるために使われた石垣は埋め立てによって「通りへ出る裏口」となり、埋め立てによって生じた家屋と道までの空間が屋地として広がった。このため、屋地が増えた分についてはコンクリート擁壁が付け加えられていたりして、かつての川際を古い石垣との境に追うことができる。

川にせり出す町

shimoda

四万十川流域に典型的な山裾に並んで形成されるうわまぁち上手の家屋群に始まり、街道的役割を担ううわまぁち、したまぁちの形成、河川交通の終焉期に港へのトラック輸送を想定した県道の敷設。
「下田」の下田は主要幹線を川側へ新設することを繰り返して発展してきた町なのである。
やがて竹島川の堆積により船の往来が困難となり、港の役割はより浜側の水戸地区へ移っていく。
堆積によって役目を終えたかに見えた浅い竹島川は、河川交通そのものが衰退した現在、アオサノリの養殖場として地域経済を大きく支える生産の場となっている。
冬場に水面を緑に覆うのりひびの景観を見るとき、少しだけ下田の家々とかつて往来した機帆船の姿を思い描いてみてほしい。港町の面影は少し目を慣らすとこの町のあちこちに見つけることができる。


より大きな地図で 下田の概念図 を表示

はたのみち草 12345678


Comments are closed.