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[四国の外レポ]職能の町・波佐見

世界の文化の中心NYで阿波おどりをしてきた①

2013.5.23 

「はたのみち草第4回』
「下田」の下田①

michikusa

「下田」の下田

幡多で魅力的な町をいくつか挙げるとしたらたら、まず僕の頭に浮かぶのがこの町だ。
これから四万十川左岸の最河口に位置するこの町のことを少しずつ書いていきたいと思う。
この町「下田」は、全国に点在する多くの”下田”と同じく交易港として発展した町で、四万十川流域の他の集落とは人も言葉も文化もやや異なる独特の雰囲気をもっている。
下田という地域は、松野山(まつのさん)、下田、串江(くしえ)、水戸、和田という5つの小さな地区からなる。
この5地区のまとまりを総称して「下田」と呼ぶのである。
概観すると「下田」発展の礎となった松野山・下田エリアと、新しい港町水戸・和田エリア、その両者をつなぐ串江という区分けができそうだ。
総称と地区名の両方に”下田”があるのでややこしいが、今回は「下田」発展の始まりの場所、「下田」の下田を歩いてみたい。
※ややっこしいので地域の総称として”下田”を使う場合は「下田」と表記します。

港町下田

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「下田」の始まりは古く中世にさかのぼる。
下田と串江の境にある貴船神社の創建とともに対岸の間崎地区から漁民の一部が移住したことが下田の始まりだと伝えられ、今でも貴船神社は「下田」の祭事において大切な場所だ。江戸期には貴船神社前に市がひらかれていたという記録もある。神社としてはめずらしいガラス張りの拝殿は、戦後に保育施設として利用された時期があるためらしい。
以後の下田発展の背景には、四万十川流域の森林資源が大きく影響している。中世にはすでに良材の産地として知られていた流域の材木が、応仁の乱で疲弊した京都へ送られた記録(『大乗院寺社雑事記』)があるなど材木は古くから流通しているし、近世~近代になると、材木に加えて木炭や薪等も商品として積み出され、流域の大きな収入源となっていた。四万十川が物流の大動脈として役割を果たしていた時代に、多くの輸送船を所有する港町下田は、四万十への入り口であり関西圏への出発地であり、富が集中する一大拠点でもあったわけだ。

うわまぁち

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下田で道を訊ねると「あぁそれならうわまぁちの方やね」と聞きなれない方向を説明されることがある。
下田の町は四万十川の支流竹島川に並行する3つの道路で区画される。
うわまぁちは最も山際の道に面した家並みのまとまり、したまぁちはその次の通りに面した家並みのまとまりの呼称である。
おそらく上町、下町の意なのだろうが、下田では”まち”と発音せず、すこし間延びさせて”まぁち”と言う。
下田では町の単位は道に囲まれた区画ではなく、道に面する家並みというまとまりで捉えられているのだ。
街区の形状は江戸時代の絵図と照らしても大きな違いは認められず、少なくとも江戸期の街のカタチが現在に引き継がれていることがわかる。
この地区では祭りの神輿は必ずうわまぁちの通りから巡行する決まりになっている。これも通り成立の時期差に由来する格式ゆえのことなのだろう。「下田」発展のもっとも古いかたちを残すのが下田のうわまぁち周辺なのだ。


より大きな地図で 下田の概念図 を表示

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