四国は、なんというか、たいした観光地がない。
だが、なんというか、某かの魅力はある。
ぴかぴかと光っていなくても、ぼんやりと光っている。
この「四国裏観光ガイド」とは、
四国のマニアックな魅力をガイドするコーナーである。
高知市の西の端、朝倉駅を降りると目の前に広がる低山。
これが朝倉城址。
長宗我部元親らが土佐の支配権を巡って争った、戦国時代の遺跡のひとつである。
とはいえ、歴史的な細かい話は既にたくさんのサイトで紹介されているので、もうここではあまり書くことがないし、そもそもの予備知識はほとんどない。私自身、そもそも「何もない」古城にはそれほど興味がなかった。
実際、実際に訪れてみても建物はなにひとつ残っていない。
しかし、この城には1500年代中盤、当時岡豊城に陣を張っていた長宗我部元親と対峙した本山氏の緊張感というか、緊迫感のようなものが残っているように感じるのだ。
この城は、嶺北本山に本拠を置く本山氏が土佐中央部で勢力を伸ばした時代、軍事的・地理的要衝だったこの地に城を築いたことにはじまる。築城から20年を経た1560年頃からは長宗我部氏との衝突がはじまり、1562年には城の近傍で決戦に至るも勝敗は付かなかった。そして1563年、不利な形勢を見た朝倉氏は城を焼いて本山へ退去。1568年に勝負が付くまで両氏の争いは続いたという。
巨大な遺構
朝倉駅から南へ延びる県道をしばらく行き、目印の看板を上がってしばらく行くと公民館があり、そこからさらに10分ほど歩くと西登り口へ至る。
ここから細道へ入っていくのだが、いきなり両側を急な斜面に囲まれた細い道へ入る。もとは斜面であったであろうところを深く堀りこんで作った堅堀と呼ばれる防御空間で、敵が侵入した場合は両側から弓矢をビュンビュンと飛んできたはずだ。不自然な地形なので、不思議と弓矢なんて飛んでくるはずのない今の時代でも、ちょっと不安になるから不思議だ(A)。
そこからしばらく歩くと下草もあまり生えていない大きな堀状の場所へ出る。このあたりもやはり四方を囲まれていて、空堀や土塁といった防御施設にあたる場所だ(B)。
うねうねと道を上がり続けると、本丸にあたる詰の段へ。
それまでの鬱蒼とした森とはうってかわって広場状になっており、ここにも某かの建物があったのだろう。今は木々に囲まれて周囲を見渡すことはできないが、遠く岡豊城も望めたかも知れない(C)。
詰の段から細い道を降りると(ここは虎口といって異常に狭い道。最後の防御地点だ)、石垣に囲まれた細道をおりてゆく(二ノ段、三ノ段)。後の耕作地の痕跡かも知れないが、もしかするとこの両側に小さな屋敷なんかが建っていたんじゃないかと勝手に想像する。滋賀県の安土城の大手門から本丸へとまっすぐと続く、両側に家康や秀吉の邸宅も並んでいたとされる大手道を思いっきりコンパクトにしたようなイメージだ(D)。
さらに少し進むと、左手に巨大な堅堀が見えてくる。巨人がスコップで山を思いっきりえぐってそのまま放置したような、明らかに自然ではない谷地形だ。通路から5〜6mはガクンと落ちており、誤って滑ってしまえばちょっとした怪我をしてしまいそうだ。そして逆に、この谷を攻め上がることは素人目に見てもむずかしい(E)。
ここからは下り道。左手に堅堀、右手に畑地になっている堀切の跡が続き、攻め込んだ敵はこの細道を走るほかない。(F)
この下り道からは、遙か彼方に高知城を望むことができた。この朝倉城が現役であった時代は大高坂山城と呼ばれ、おそらくは廃城になっていたはずだ。
ちなみに大高坂城は1341年に南北朝の争いで廃城になり、1587年に土佐を平定した長宗我部元親が再び城を築いている。その後、水はけの悪さに懲りて数年で元親は浦戸城へ移り、関ヶ原の戦で功を挙げた山内一豊が1601年から本格的な築城を開始。1603年に河中山城と名付けられ、1611年には完成した。
ちなみに「河中山」の名が変じて高知という名が生まれたのであり、「高知」という地名はまだたかだか400年の歴史しかないのだ。(G)
なんにせよ・・・朝倉城ほどかつての遺跡が残っている城も高知では珍しそうだ。長宗我部氏の本拠地、岡豊城は高知県立歴史民俗資料館が立地する場所にあって城址もすぐにアクセスできるのだが、防御施設などは意外と悠長な作りにも見え、なんというかそんな緊迫感がないように感じる。
以上、素人でもわかる朝倉城の紹介でした。