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四国で演劇をつくることについて その2

2013.6.7 

四国で演劇をつくることについて その1

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はじめに

「劇団をやってます」というと、「へえ、高知にも劇団があるんですねえ」と返ってくることが多くて、これはつまり高知の一般の方々に「劇団というのは都会でやるものだ」と、「地方には演劇がない」と思われてるってことですね。「はい、高知にも劇団がありますよ。ぼくらだけでなくいくつも劇団があって、それぞれ活発に活動してるんです」と笑顔で応えながら、ぼくは心中やりきれない気持ちでイッパイ、ため息深く地方演劇の現実を痛感するのであります。だから声を大にして言いたい。朝礼台に立って叫びたい。高知にも演劇はあるのだと。というより人が住むところには必ず演劇がある。なぜなら、演劇を必要とする人々はどこの町にも存在するからなのであります。

演劇は不思議なメディアでありまして、観客がいないと成立しません。例えば映画は完成すればそれで作品になります。乱暴な言い方ですが、上映会に観客が集まらなくても映画はすでにできあがっているのです。しかし演劇はそうはいかない。例えば演劇の公演にお客さんが一人も来なければ、俳優たちの間に「お客さんいないのにやるの……?」という、想像するだに恐ろしい不穏な空気が流れます。「何を言ってるんだ! やるんだ! 観客が来なくてもやるんだよ!」と主催者が強情を張って無理矢理に幕を開けたとしても、俳優たちの「この上演になんの意味があるんだ?」という真っ当な疑問を払しょくすることはできません。誰もいない客席に向かって芝居をする、これが不毛なことは誰にだってわかるのです。

演劇の成立には観客がどうしても必要です。作品の最後の仕上げは観客に委ねられているといっても過言ではありません。「今日はみんな笑っているなあ」とか「空席が多いなあ」とか「スベったなあ」とか、俳優たちには客席の雰囲気がダイレクトに伝わっています。そのため上演する回によって、いい意味でも悪い意味でも芝居が変わります。それが演劇の醍醐味だし、映画との根本的な違いなのだとぼくは考えています。

演劇には「劇場」「俳優」「観客」の3つの要素が必要だと昔から言われてきました。わかりやすく言い換えれば、「演じる場所」「演じる人」「観る人」が演劇を構成している。ぼくたちシアターホリックは高知で演劇を作っています。演劇を作る上で地域性を無視することはできません。なぜ高知で作るのか、どうして高知で上演するのか、はたまた何のために他の町まで出掛けて上演するのか、ぼくたちは常にそのことを考えています。その裏には、都会で作られた洗練されたものにばかり価値が有るわけじゃないだろうという、演劇独自の価値観があります。それは演劇ファンの皆さんもきっと同じことを考えていて、だからぼくたちの手作り演劇のために劇場へ足を運んでくださるんだと思うんですよね。どこの町にも演じたい人がいて、観たい人がいる。だから演劇が生まれる。演劇の価値や意味というのは、都会とか地方とか、流行りすたりとかで割り切れるほど単純なものではなさそうです。

この連載では、高知市を拠点とする劇団シアターホリックの活動を通して、多少の演劇論を含めて高知で演劇を作るってどういうことなのかを語っていきます。そしてぼくが知り合ったいくつかの劇団と四国演劇の現在をレポートします。「演劇? ハァ? なにそれ」と思ったアナタも、ここはひとまずだまされたと思ってしばらくお付き合いくださいませ。もしかしたらそういうアナタも潜在的に演劇を求めているのかもしれませんよ。そして興味が出てきたら、これまただまされたと思って是非とも劇場へ足を運んでみてください。それがかけがえのない演劇体験になるかもしれません。イマイチ面白くなくて「なんじゃこりゃ、本当にだまされてしまったよ……」ということになったとしても、まあ、それはそれでいいとしましょうよ。人生は思い通りに行かないものです。

そしてもうひとつ。ぼくにはこの連載を続けることで実現させたい「野望」があるんです。「野望」だなんてご大層な言い回しですが、その実現にはたくさんのお客さんとクリエイターの協力が必要なので、あながち大げさとも言い切れません。早くそのお話をしたいところですが、長くなりそうなので野望の話はまた今度ゆっくりと。


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