七夕と聞くと、笹竹に色とりどりの短冊や紙で作った様々な小物などが飾り付けられる華やかなものが今では当たり前ですが、高知県須崎市には、ひっそりと昔から続く「七夕かざり」という独自の文化が残っています。
須崎市は昭和29年に須崎町・多ノ郷村・吾桑村・上分村・浦ノ内村の5カ町村が合併して誕生したことから、地区によって飾り方や飾るもの、意味合いが異なるのですが、どの地区にも共通している特徴は、わらで編んだ「わら馬」を飾ることです。
七夕かざりについてのあれこれ
今回は、須崎市の地区のひとつである多ノ郷宮ノ下の行正・清枝(きえき)部落の「七夕かざり」についてご紹介したいと思います。
行正・清枝部落の七夕かざりは、大冒疫(今でいうインフルエンザ)などの疫病が流行したときに七夕様に願掛けしたことから始まったと言われています。本来は、旧暦の7月6日に行うものですが、二期作が始まったあたりから新暦に変わりました。
「七夕かざり」の作業は、1年間の神事の持ち回りとなった当家(とうや)が7月6日の夕方から行います。
玄関の両脇に笹竹を2本立て、一方の笹竹には短冊を飾ります。その間に約3.8mの注連縄を張り、葛の葉・センダンの葉・マクサ(神事に使う和紙)に包んだお米・カヤの葉・稲穂・茄子・ホオズキを左右一対ずつ、オスとメスのわら馬を一対、提灯・田芋の葉に包んだ水を中央に吊るします。かざりつけるものにはそれぞれ意味や理由があります。
まずは「わら馬」です。馬という生き物は昔から神様の乗り物や神の遣い、といったような神聖なものとして扱われていました。「わら馬」には災い除けの意味合いもあるため、用いられたと考えられます。
この地区では当家以外の別の家の人がオス・メスの一対の「わら馬」を作ります。胴体が太く、耳と蹄(ひづめ)があります。オスのたてがみは7本。そして馬の鞭(むち)を一緒にかざります。
その他には、提灯の灯りを頼りに織姫と彦星のふたりが会って、お水を飲むと云われており、センダンの葉には「七夕様が1日に1000反の布を織れるように」という願いも込められています。
注連縄には夏野菜も一緒に飾られるのですが「七夕様がきゅうりの水に流された」という云われがあることから、きゅうりを飾りません。
もうひとつの大事な準備
飾り付け以外にも準備するものがあります。玄関の横には「棚」を構え、その中には一対のろうそくと小さな笹と短冊・菓子・果物・酒・ちらし寿司と世帯数分の米粉の重ね餅を供えます。七夕は元々神式のお祭りだったことや本来はお盆の前段階の儀式だったことから、精霊棚のような意味合いを持っているのかもしれません。
7月6日の夜には、当家の家にそれぞれの家の人たちが集まり、日付が変わるまで雑談をする「お通夜」が行われます。昔は翌朝日が昇るまで行っていたそうですが、時代の流れによって変化したそうです。この「お通夜」は単に夜を通るという意味で、「葬」の意味合いはありません。
その後、夜が明けた7日の早朝に近くの川へ行き、七夕かざりを「あます」のだそうです。
川の両岸に縄を渡して笹を立てることを「あます」と言います。(言葉の意味が異なる地区もあります)捨てるのではなく、神様に帰っていただく行為です。また、魔物が来るのを堰き止める意味があるそうです。
古くから川などの水辺は「この世とあの世」の境界、人間にとって好ましくない、外界から襲来する災害を防御する唯一の地点であり、そこを守る神様が存在すると考えられていたため、願掛けの場所としても選ばれていたことが影響していると思われます。
医療が発達していない昔の人にとっての流行病は「目に見えない未知のものがもたらしている恐ろしいもの」だったため、予防・鎮静・祭祀の意味合いが強かったのでしょう。
現在では人口の流出・流入が繰り返され、昔のことを知る人がどんどん減り続ける一方です。核家族化や個人化で家族同士の結びつきが希薄になる中で、神事のやり方やお祀りすることの本当の意味合いも忘れさられようとしています。
須崎市の「わら馬」は、今なお細々と根付いている地域の風習を伝え、残していくための課題と向き合うことを教えてくれているようにも感じます。
※須崎市の各地区の七夕かざりは飾り方や云われ、意味合いがそれぞれ異なっているため、今回は多ノ郷地区のものを取り上げさせていただきました。
※資料・写真提供:高知県立歴史民俗資料館、矢野正博さん